大人が「生活」という言葉を口にすると、 その後は決まって、 「…があるからな」 「…しなければならないからな」 と続く。 大人にとって、 生活とは、 「しなければならない」もの、 大人は、 生活しなければならないんだ。 この言葉遣いが いかにおかしいものであるか、 考えてほしい。 生活することを義務として 定めている法律はないのに、 なぜ人は 「生活しなければならない」と、 それが義務か強制であるかのような言い方をするのか? 誰がそれを強制しているというのか? 生きることを権利として決めている法律はあるが、 生きることを義務と決めている法律はない。 では、 誰がそれを決めているのか? 決めているのはその人だ。 生きなければならないという法律はなく、 誰もその人に生きることを強制してはいないのだから、 「生きなければならない」と、 生きることを義務か強制のように思っているのは その人でしかない。 生きることはあくまでも その人の自由である。 生きたくなければ死ぬ自由はある。 なのに、 死なずに現に生きているのだから、 生きることを自分の自由で選んでいるのだから、 その人は、 本当は「生きなければならない」ではなくて、 「生きたい」と言うべき。 本当は自分で生きたくて生きているのに、 人のせいみたいに 「生きなければならない」と思っているのだから、 生きている限り何もかもが人のせいみたいになるのは当然だ。 生きるためには、 食べなければならない、 食べるためには、 稼がなければならない。 そのためには、 仕事をしなければならない、 この「しなければならない」の繰り返しが、 大人の言うところの「生活」だ。 しなければならなくてする生活、 生きなければならなくて生きる人生なんかが、 どうして楽しいものであるのか? たぶんそれは、 こんなふうに生きているのはイヤなんだけど、 死ぬのはもっとイヤだから、 だから「生きなければならない」 ということだ。 でも、 生きたくないのに生きることが、 死ぬことよりもイヤなことではないかどうかは、 生きている限りはわからない。 わからないから生きているのだ。 やっぱり生きることを選んでいるのだ。 だったら人は、 自分で自分の人生を選んでいるということを、 はっきりと自覚して生きるべきだ。 仕事も生活も何もかも、 自分がしたくてしていることだと、 自覚すべきだ。 そうすれば、 自分のことを人のせいみたいに 文句を言いながら生きることもなくなる。 それでも人は、 自分がしたくないこともじつは 自分がしたくてしていることなのだと認めるのがイヤで、 やっぱり人のせいにしたくなる。 その口実として一番もってこいのが、 家族だ。 家族がいるから 仕事をしなければならない、 家族を養わなければならないから、 自分のしたいことをあきらめなければならない、 というわけだ。 人は自分が本当にしたいことが 自分でわかっていないから、 それを家族と仕事のせいにしているだけだ。 自分が本当にしたいことを仕事にできる人は、 幸せだ。 楽しくて、 お金が稼げて、 しかも自分の能力を伸ばすことができる。 生きなければならないから 仕事をしなければならないと思っている限りは、 人は決して本当に生きることはできない。