◆アメリカにおいて、 「能力主義」と称するものがいかに腐敗しているか、 その実態が最も明白なのは、 大学への「縁故」入学である。 評価の高いアメリカの大学のすべてが、 卒業生の親族や息子への入学優遇制度を実施している。 数多くの名門私立大学では、 「縁故」志願者の30%から40%に入学を許可し、 他の入学志願者に対しては11%から17%しか許可しない。 ハーバードでは、「縁故」入学の見込みは、 単に「才能のある」志願者の入学見込みの 6倍も高いという。 これは「能力主義」ではなく、「特権重視」である。 大学にとって、収入を増やすひとつの方法は、 より多額の授業料を払うことをいとわない学生を 入学させること。 より才能を示す学生ではなく。 「定員主義」において、 寄付が充分にあるため資金に困らない大学は、 「血統」に取り込まれる。 その一方で、資金が必要な大学は、 最高額を提示する入札者に身売りする。 そして今後もずっと、独断による定員と 自己流の慣習的な基準で教育的な機会を 提供するシステムをわれわれが維持する限り、 富裕層と特権階級が他の階層より有利に 立ち続けるだろう。 ◆わずかな勝者と大多数の敗者が生まれる 「不公平な人生ゲーム」 テニス、相撲などはすべて「ゼロサム・ゲーム」だ。 これはゲーム理論の用語で、 一方が得点すると他方が同じだけ失点する ゲームを指す。 「大学入試などにおける定員主義」においても、 勝者と敗者が50%ずつであれば、 これはゼロサム・ゲームということになる。 自分の才能を伸ばしたい人の半数が、 その才能を開花させるだろうが、 残りの半数はそうならない。 この場合、どちらが勝者でどちらが敗者かは 問題にならなくなる。 なぜか? 成功する人ひとりにつき、 別のひとりが成功しないだけのことだからだ。 しかし、実際の定員主義はまったく違う事態を 引き起こす。 ごく少数の勝者と大多数の敗者を生むのだ。 イエール大学へ入学できる学生ひとりにつき、 入学できない学生は15名。 スタンフォード大学医学部へ入学できる学生が ひとりにつき、入学できない学生は42名。 ローズ奨学金を受給できる学生ひとりにつき、 受給できない学生は数百名。 定員制である限り、 成功するチャンスをつかめるのは、 誰かのチャンスを奪ってのことというわけだ。 いや、誰かひとりのチャンスだけではない。 多くの人のチャンスを奪うことになる。 定員主義では、 ごく少数の人が機会を得るのは大多数の犠牲の上に 成り立っているということだ。 これが、ゼロサム・ゲームより悲惨な、 ネガティブサム・ゲームである。 間違いなく言えるのは、 「社会の構成員の半数よりはるかに多くが、 その能力・才能を生かせるチャンスさえ 得られないだろう」ということだ。 毎年、1万5千人近くの新入生が アメリカの名門私立大学に入学する。 事実上、社会が提供する最も有利なコースへの 入り口を通過する数だ。 しかし同時に、120万人あるいは99%の学生が 入学できないことになる。 そこからあぶれた者たちは、 残り物だけでも何とか手に入れようと競い合う。 確かに、定員主義によって、 社会が常に安定した数のスーパースターを 産出することは保証される。 ただ、その数にあなたが入らないだけだ。 最高の機会を受け取る人たちが、 客観的に見てそれにふさわしい力量の持ち主ならば、 われわれは「ネガティブサム・ゲーム」に 甘んじることも可能かもしれない。 しかし、才能を評価する際に才能エカントに頼る システムは、公平さを放棄するだけでなく、 必ず腐敗した体質に陥るものだ。 ◆個人の判断により定員枠内でしか機会を 提供しないシステムなど、 新の能力主義であるはずがない。 それはむしろ、「定員主義(Quotacracy)※」である。 そして定員主義においては、 成功するかしないかは常に「ネガティブサム・ゲーム」 になる。 ※大学入試における定員枠など。 大学は何人の志願者が才能を持っているかは 重要ではないのだ。 大学は自ら決めた定員に縛られているのだから。 ◆誰もが主役になれる時代。 「才能伸ばすために」知っておきたいこと 古い考え方は「特別な人間だけが、才能を持っている」 と主張し、 新しい考え方は「すべての人間が、才能を持っている」 と主張する。 双方の主張が共に真実であるはずがない。 あなたは、 どちらか一方の立場を選ばなければならない。 標準化の考え方によると、 ごく少数の人間だけが特別な才能をもっているから (そのために、 ごく少数の人間のみに充実感を得る能力があり)、 組織がそのような才能をもった個人を特定し、 その個人に褒美を授ける権力を独占してもよい ということになる。 ダークホース的な考え方によると、 誰もが特別な才能をもち、充実感を得ることができ、 組織は個人がそれぞれの潜在能力を余すところなく 伸ばすことができるよう手助けすべきだということになる。