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「生きづらい」が「楽しい」に変わる言葉 【小林正観】



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◆他人を当てにする

70歳くらいの人に、
「インターネットの検索を使うといいですよ」
という話しをした。

すると、その人は次のように話した。

「分かりました。インターネットができる友人を、
もうひとりつくれということですね」

すごい発想だ。

70代なのに、すごく頭がやわらかい。

自分がインターネットを覚えなくていい。

パソコンも覚えなくていい。

そういうのができる友人をひとり増やしていけばいい。

そこが人生を面白くする。

自分が全部やるのではなくて、
自分の努力や頑張りをゼロにする。

そして、全部友人や知人に
やってもらうように考えると、
人生がめちゃくちゃ面白くなる。

◆味方をつくる

ある有名な食品メーカーの逸話がある。

社長が急死した。

それで、その後、会社のことをまったく何も知らない
奥さんが受け継ぐことになった。

社員も掌握していないし、
どんな商品が出ているかさえわからない。

取引先の人にも何も説明ができない。

ただ、夫が急死したので受け継いだ。

それで、この奥さんは、
社員と取引先に「ありがとう」「ありがとう」
「ありがとう」とただ頭を下げていた。

「みなさんのおかげで成り立っています。ありがとう」
と言っていたら、
何も経営手腕は発揮していないのに、
売り上げが3倍になった。

今も商品のことはわからない。

取引先のことも全然わからない。

ただ、会うたびに、「みなさんのおかげです。
ありがとうございます」だけ言っている。

それで、この人のところには、
全国から講演依頼が殺到している。

夫が一生懸命に経営手腕を発揮していたときも、
このメーカーの商品は、ほかのメーカーのものよりも
たくさん売れるようになった。

しかし、その努力の結果よりも、
「ありがとう」を言っているときの方が、
売り上げが3倍になった。

なぜか?

それは、味方をつくったからだ。


◆「私」の許容範囲を広げる

人間の寛容度を扇子にたとえて
平均的に90度だとすると、
この90度の範囲内にいる人は許せる。

しかし、自分の寛容度の外にいる人は許せない。

そうしたとき、家族だったり、
部下だったり、友人だったり・・・
を自分の許せる範囲の中に連れてこようとする。

自分の価値観、考え方と合わない人を、
自分の許容範囲内に連れてこようとするが、
なかなか連れてくることはできない。

そういうときに、
苛立ったりストレスがたまったり、怒ったりする。

もうひとつのやり方として、
「自分が広がってしまえばいい」というものがある。

若いうちから、早い段階から広げてしまえば、
その後が楽になれる。

自分とは価値観が合わないといって、
自分の心の狭さを振り回して人を糾弾しているよりは、
その人のところまで自分が広がってしまったほうが、
あとあと自分が楽になる。

その人のおかげで広がることができたのだから、
「ありがとう、感謝」ということになる。

自分の心が狭くて、
自分の正しさを振り回しながら、
「あの人が許せない」「これが思いどおりにならない」
と言っていることが、
自分の人生をものすごく
重苦しいものにしているのかもしれない。

人格者にならなければならないというのではなく、
心の広い人になってしまった方が人生が楽になる。

◆「人」という文字は、
人が2人背中合わせになって立っている姿である。

その人と人の間に生きているから「人間」
という文字になった。

もともと、人間はひとりでは生きていけない。

そういうふうにお互いに助け合うこと、
頼み合うこと、頼まれること、
それをやってあげ合うこと。

これこそが、
まさに人間がこの世に生まれてきた目的ではないか。

喜ばれる存在であることを
一生懸命やっていく結果として
(派生事項として)、会社が大きくなったとか、
売り上げが上がった、県内一の大企業になった、
ということはかまわない。

でも、そういう結果を目指すのではなく、
喜ばれることをやっていけばよい。

どうしたら売り上げを上げられるか、
どうしたらお客さんがたくさん来てくれるかを
考えているうちは、
たぶん本質的な結論を得ることはできない。

しかし、どうしたら喜んでもらえるか
ということを考えていれば、
自ずから数字もついてくるのではないか。

◆三禁五戒

五戒とは、
不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句
の5つの言葉である。

この五戒が常に連続し、
それが心の中に住みついて腐敗し始めた状態、
つまり、恨み言や憎しみの心が継続的になったことを
「う・に・の」(恨み、憎しみ、呪い)状態と言う。

怒りや憎しみが常に続いている「う・に・の」
の状態を、
戒めるのではなく、しないことにする
(禁止する、自分の心の中から取り除く)
というのが三禁。

頼まれごとがあったときに、
五戒を言わないという状態になっていれば、
たぶん、断ることはないはず。

体があいていたら引き受ける。

体があいていなければ引き受けない。

それだけである。

ただ、この頼まれごとについては
3つの除外原則(3つの「し」)
というものがある。

3つの「し」とは、
甘い話(儲け話)、脅かし、詐欺師の3つ。

1つ目の「甘い話」とは、
たとえば電話がかってきて
「金もうけに興味ありませんか?」とか、
「いい株があるのですが」
「金の先物買いがあるのですが、どうですか?」
というような話。

そういう電話がかかってきたときは、
「なぜ会ったことのない人に
こんな話をするのですか?」と尋ねる。

その人は「多くの人に儲けてほしいからです」
と答える。

「そんなことを多くの人にすすめないで
自分で一生懸命儲けていたら、
こんな電話勧誘をしなくてすむのではありませんか?」
と言う。

そうすると、向こうは絶句して電話を切ってしまう。

結局、儲け話に引っかかるというのは、
自分の儲けたいという気持ちと
連動している場合が少なくない。

自分の中に欲があったり、
自我があったりする場合に引っかかる。

2つ目の「脅し」は、
天変地異が起こるとか、地震が起きるとか、
自分たちだけでは助からないとか、
信仰した者だけが救われるなどという人たちである。

こういう人たちにかかわると、ほとんどの場合、
大きな金品を巻き上げられることになる。

3つ目の「詐欺師」というのは、
もともとだまそうという悪意を持って
近づいてくるから、
必ず最終的にはお金の話になる。

そしてそのお金を巻き上げるために、
いろいろなことを言うので、
お金の話になってきて怪しいと思ったら、
そこのところでやめる。

基本的に、
体や能力を貸してくれ、
汗を流してくれ、というものであれば、
「頼まれごと」になる。

しかし、「お金を貸してくれ」というのは、
「お金」に用事があるのであって
「その人」に用事があるのではない。

なので、「お金」の件は
基本的に「頼まれごと」と考えなくてよい。