Liberal Arts {Article026}

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幸せになる勇気


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恋愛にしろ、人生全般にしろ、
アドラーは「運命の人」をいっさい認めない。

なぜ、多くの人は恋愛に
「運命の人」を求めるのか?

どうして結婚相手にロマンティックな幻想を抱くのか?

それは…
「すべての候補者を排除するため」である。

そのささやかな「出会い」を、
何かしらの「関係」に発展させるには、
一定の勇気が必要になる。

声をかけるとか、メールを送るとか…

そこで「関係」に踏み出す勇気をくじかれた人は、
どうするか?

「運命の人」という幻想にすがりつくのである。

目の前に愛すべき他者がいるのに、
あれこれ理由を並べて
「この人ではない」と退け、
「もっと理想的な、もっと完璧な、
もっと運命的な相手がいるはずだ」と目を伏せる。

それ以上の関係に踏み込もうとせず、
ありとあらゆる候補者を、
自らの手で排除する。

こうして過大な、
ありもしない理想を持ち出すことによって、
生きた人間と関わり合いになることを回避する。

それが「出会いがない」と嘆く人の正体である。

幸せは、向こうから訪れるものだと思っている。

「いまはまだ幸せが訪れていないが、
運命の人に出会いさえすれば、
すべてがうまくいくはずだ」と。

結婚とは、「対象」を選ぶことではない。

自らの生き方を選ぶことである。

誰かとの出会いに「運命」を感じ、
その直感に従って結婚を決意した、
という人は多い。

しかしそれは、
あらかじめ定められた運命だったのではなく、
「運命だと信じること」を決意しただけである。

誰かを愛するということは
たんなる激しい感情ではない。

それは決意であり、決断であり、約束である。

出会いのかたちなど、どうでもいい。

もしもそこから本当の愛を築いていく決意を固め、
「ふたりで成し遂げる課題」に立ち向かうのであれば、
いかなる相手との愛もありうる。

われわれに「運命の人」などいないのだし、
その人が現れるのを待ってはいけない。

待っていたのでは、なにも変わらない。

運命とは、自らの手でつくり上げるものである。

われわれは運命の下僕になってはいけない。

運命の主人であらねばならない。

運命の人を求めるのではなく、
運命といえるだけの関係を築き上げる。

愛と結婚は、ふたりで踊るダンスである。

そばにいる人の手を取り、
いまの自分にできる精一杯のダンスを踊ってみる。

運命は、そこからはじまる。

愛とは信念の行為であり、
わずかな信念しか持っていない人は、
わずかにしか愛することができない。

アドラー流にいえば、
あなたはわずかな勇気しか持っていなかったのだ。

だから、わずかにしか愛することができなかった。

愛する勇気を持てず、
子ども時代の、
愛されるライフスタイルにとどまろうとした。

愛する勇気とは…
幸せになる勇気である。