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苦悩から解放されるにはどうすればいい?【ショーペンハウアー】


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ショーペンハウアーのいう意志は、
理性的な意志ではなく、
むしろ理性とは無関係の身体活動
として現れる「生への意志」
を意味している。

そうした生への意志は、
根拠も目的もない盲目的な
意志であるため、
人間にとっては際限のないものとなる。

だから人間の欲求というものは
いつまでも満たされることがなく、
生は苦痛に満ちたものとなる。

では、人はいかにしてその苦痛から
逃れることができるか?

そのための方法として
ショーペンハウアーはまず
イデアと芸術の関係について述べている。

芸術においては、
知性は時間や空間、
そして因果律を越えて、
イデアを直観できるという。

芸術は、
人間から主観とか
客観という要素を取り除き、
人間を意志の欲望のすべての苦痛から
解放した解脱の立場へと高める。

ところが問題は、
芸術による解脱は、
稀にしか生じない一時的な
ものだという点。

そこで次に説かれるのが、
道徳による解脱。

一時的ではない恒常的な道徳による
解脱が論じられる。

生が苦痛であるということは、
生の一部である道徳も、
他者とともに苦しむということを意味する。

つまり同情。

同情することで、
人は他者の苦しみを理解しようとする。

もっとも、この場合でさえ、
実際には他者に対してできる限りの
ことをするという程度。

その意味では、
生存の苦痛からの究極的な
解脱にはなりえない。

根本的には「生への意志」
そのものを否定するしか道はない。

それを可能にするのは、
「禁欲」をおいてほかにない。

ショーペンハウアーがいう禁欲とは、
仏教の宗教的諦念[1]によって
もたらされる種類のもの。

この意志のあきらめ、
禁欲的否定こそが、
苦痛からの決定的解放を可能にする。

※[1]
諦念は物事の本質を理解をして、
迷いが全てなくなった境地に達した事と
あきらめの境地に達した事を意味する。
2つの意味を持っている。