レヴィナスによると、 人は物事の形を明確に しようとする。 それは物事をはっきりさせて、 所有するため。 所有することで、 「他なるもの」としての世界は 私のもの、つまり「同」になる。 人間というのは欲求の塊。 別の言い方をすると、欠如の塊。 だから求める。 そしてその欲求を満たすと同時に、 世界の一部はまた私のものとなる。 しかし、そうすると、 決して私に回収されることのない 絶対的に他なるものは存在しないのか どうかということが問題になる。 求められるにもかかわらず、 決して満足されないもの。 レヴィナスはそれを 「欲望されるもの」と呼ぶ。 欲求と欲望を区別する。 欲望の対象は、 決して充足されることのないような、 無限に追い求めることのできるもの。 それが他者。 だから他者は誰にも所有されない。 他者は決して 全体の中に取り込まれてしまうことのない 存在なのだ。 絶対的な他者の存在について、 レヴィナスはこんなふうにいっている。 「絶対的に異邦的なものだけが、 私たちを教えることができる。 そして、私にとって絶対的に 異邦的でありうるのは人間のほかにない」と。 その絶対に手に入らない他者の存在を もっとも象徴するのが「顔」。 「顔」は他者の現れで、 しかもそれは顔一般のことではなくて、 そのとき対面し合っている「顔」。 わかりやすくいうと、 人は、他人の顔に見つめられることで はじめて、自分の存在を意識して、 自らに課せられた責任を感じるようになる。 「顔」というのは、 一人ひとり異なるばかりか、 他人からの眼差しは自分には 決して回収できない別世界の存在なのだ。 それは私のモノサシで測ることを許さない。 だから私たちは他人の眼差しが気になる。