◆大善小善 「愛情」というのは、 単なる小善の愛ではなく、 大善の愛である。 一般に、善だと思うことが、 実は大悪であることがたいへん多い。 小善ではなく、 大善を見抜く眼力が必要となる。 IBMの社是には「社員を大事にする」 という考え方があり、 その説明として次のようなたとえ話がある。 ある冬、 たいへん厳しい寒波に襲われて湖面が凍ってしまい、 カモの群れは餌をついばめなくなった。 近所に住んでいた優しい老人が、 見かねて餌を撒いてやったので、 カモは飢えを凌いでひと冬を越すことができた。 ところが、 春が来てもカモの群れは帰っていこうとしない。 老人の餌付けで、 カモはそこに居着いてしまった。 老人はますますカモがかわいくなって、 春が来ても、夏が来ても餌を撒いてやった。 何年かが経ち、 また大きな寒波が来て、 湖面が凍った。 あいにくその冬、 あまりの寒さに老人は亡くなってしまった。 誰も餌を撒いてくれなくなったために、 餌をとる術を忘れてしまったカモは 全部死に絶えてしまった。 つまり、 IBMは「社員を大事にする」とはいっても、 溺愛できあいするような育て方はしないということ。 それを、このカモの話が物語っている。 湖が凍って餌がとれない哀れでかわいそうなカモに 餌を与えて助けてやることは、 相手を溺愛する小さな愛情、つまり小善である。 仏教では、「小善は大悪に似たり」という。 小さな愛情、 いい加減な愛情というものが、大悪をなす。 善だと思うことが、 実は大悪をなしている場合は、いくらでもある。 愛情は、大善でなければならない。 「大善は非情に似たり」ともいうように、 大善というものは愛情のかけらもないように見える。 例えば、 「獅子が我が子を千尋の谷に落とす」 という言葉がある。 千尋の谷から這い上がってきた子だけを育てるのは、 非情に見える。 しかし、それは大きな愛なのだ。