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山岡鉄舟 修養訓 [4] 【平井正修】



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◆平常心とは何か

剣道とは平常心である。

平常心や不動心というと、
風が吹いても木立がまったく揺れない、
そんな心だと思いがちだが、
決してそうではない。

それは竹のように
いくらでもしなうような心である。

「折れないぞ」と頑張るのではなく、
曲がってもすぐに返ってくるような
しなやかな心である。

だから、「これが平常心だ」という心はない。

怒っても平常心、
喜んでもいても平常心、
ドキドキしていても平常心なのだ。

そのものの真っ只中にいるときの心が
平常心なのである。

◆形を調え、心を調える

たとえば会社の人事異動で
閑職に追いやられたとする。

そのときに
「どうして俺がこんなくだらない仕事を」
と思ったとすれば、その瞬間に、
その仕事はどうやっても
くだらないものにしかならない。

くだらないと思いながら、
きちんと仕事ができるわけはないからだ。

しかし、ついそう思ってしまう人は
少なくないに違いない。

心を瞬時に調えることはなかなか難しい。

なぜならば、
心は目に見えない、
形のないものだからだ。

そんな見えない心を調えるには
どうすればいいのか。

それにはまず形を調えることだ。

形というのは、言葉であったり、
礼儀作法であったり、
目に見えるものだ。

それを調えていくのである。

目に見える形を調えることによって、
内面を調えていくのである。

これは健康でも同じだ。

健康というものは目に見えない。

健康そうに見えても、
果たして本当に健康なのかどうかはわからない。

そもそもどういう状態が
健康なのかは人によって違う。

健康は見えないものだけれど、
その見えないものを調えるために
日常生活の形を調えていくわけだ。

◆どこまでも上を目指す

勝負だけにこだわれば、
結局のところ負けることになる。

剣道では勝負にこだわらない。

あるいは、
瞬間の勝ち負けを自分の中でどのように
次につなげていくのかを考えることが
大切になる。

剣も禅も仏法も、
心が主体となるものには天井がない。

どこまでもどこまでも
自分というものを高めていくことができるし、
それを目指さなければならない。

「ここまででいいや」
「この人に勝ったからいいや」
という瞬間の結果に満足するのではなくて、
どこまでもどこまでも
自分自身に問いかけていかなければならない。