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山岡鉄舟 修養訓 [5] 【平井正修】



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◆自分は常に自分と共にある

「晴れてよし 曇りてもよし 不二の山
もとの姿は かわらざりけり」

晴れていても曇っていても、
富士山は変わらぬ元の通りのままそこにある。

歌にあるように、
曇って見えなくてもそこに富士山はある。

見えないからといってなくなるわけじゃない。

いつもと変わらず、そこにある。

よく「自分探しの旅」とかいうけれど、
どこかへ探しにいったって自分は見つからない。

あるいは「自分を見失う」
ということを我々はよくいうし、
そういう状態に陥るときも
実際にはあるけれど、
朝から晩まですべてのことは
自分自身がやっているのである。

「ふと我に返る」という言葉もある。

これは、
ある瞬間に「なんでこんなことをしたんだろう」
とか
「なんでこんなことを言ったんだろう」
と気づくことだ。

そういう「なんでこんなことを」
という状態を
「自分を見失っている」というのだろうが、
そういうときも常に自分は自分と共にあるのだ。

それをしっかりと体得する。

そして常に自分と一体となっていく。

◆厳しさの中に見える人間の真価

剣法とは、その場、その瞬間に、
その生死を決断するものだ。

座禅というのは
長い時間座ったらいいというものではない。

では、なぜ1週間も坐り続けるのか。

それは、その厳しさの中でこそ
見えてくるものがあるからだ。

人間というのは
自分に余裕があるときできるのは当たり前で、
自分がギリギリまで追いつめられたときに
どうするかというところに本心、本性が表れる。

余裕のあるときに
困っている人を助けるのは簡単なことだが、
自分も苦しいときにどういう行動がとれるのか、
そこでその人の真価が問われるのである。

スポーツでも勉強でも仕事でも
なんでもいいから、
一度は倒れるまでやってみたほうがいい。

生きるか死ぬかというところまで
行けるかどうかはわからないが、
できれば若いうちに、
なんでもいいから
倒れるまでやってみてはどうだろうか。

すると、
そこから見えてくる世界が必ずあるものだ。

◆志を高くして生きる

無刀とは心以外に刀が無いということだ。

なぜならば、
この世の中に起こることはすべて
我々の心から出ているものだからだ。

無刀流といっても
刀を持たずに稽古をするわけではない。

稽古のときは当然刀を持つわけだが、
その刀は心の表れである。

だから刀と刀を合わせて
鍛錬をするのだけれど、
それは技の優劣を競っているのではなく、
実は心の鍛錬をしている。

それを表現するために「無刀」という言葉を
用いているのである。

この考え方は、いろいろ応用できる。

たとえば、
仕事を収入を得るための労働だと思うか、
自分を高める場だと考えるか、
それによって取り組み方は大きく変わってくる。

前者であれば仕事は仕事で終わりだが、
もう一段高いところに目をつけて、
仕事で自分の心を
どれだけ高められるかと考えてみると、
何もかもが鍛錬の糧になる。

普段の生活も、
あらゆる場面で自分の心をどれだけ
高めることができるのか考えるようになると、
無駄がなくなり生き方が変わる。

「すべては心から出ているのだから、
志を高くして生きよ」と教えているのが、
この「無刀」である。