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山岡鉄舟 修養訓 [7] 【平井正修】



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◆しなやかに立ち向かう

心は風にそよぐおぎのようであれ。

時には柔軟に、時には剛毅ごうきに、
時には強く、時には弱く、
そういうしなやかさが大切である。

心というものを荻にたとえている。

風が吹くまま右へ左へ行ったり、
自由自在なしなやかな心が大切だという。

それは子供の心にも似ている。

人は皆、
もともと子供のような心を持って生まれてきた。

ところが、
成長していくにしたがって体が硬くなるのと一緒に
心も固くなっていく。

だから年寄りは得てして頑固になる。

これは自然に固くなるというよりも、
自分で固くしてしまうというほうが的確かもしれない。

人は何もしなければ
一つの考え方に凝り固まってしまう。

自分ではそれが正しいと思って生きているわけだが、
その正しさとは自分勝手な正しさにすぎない。

だから百人いたら
百人の正しさがあっても不思議ではない。

ところが、年をとると、
それがなかなか理解できなくなっていく。

もっともっと本来の心の柔軟性、
子供のめげない姿に我々は立ち返らないといけない。

◆人を変えようと思うならまず自分から

人を治めようと思うならば、
まず自分自身を治めることだ。

これはすなわち「大学」でいう
修身斉家しゅうしんせいかの道に他ならず、
万物を貫く道理というものである。

どうしても私たちは
自分が変わるより人を変えたいと思う。

なぜか?

鏡を見れば自分の姿を見ることができるが、
通常は自分の顔を見ることはできない。

自分の声も録音して聞いてみると
思っているのと全然違う声に聞こえる。

我々は自分のことはろくに知らないのだが、
他人の姿は見えるし、声も聞こえ、
匂いもするから、
なんとなくわかるような気がする。

だから他人を変えようとするのだろう。

しかし、自分の心を変えることすら難しいのに、
他人の心を簡単に変えられるわけがない。

人を変えようと思う前に、
どうしたってまず我が身を修める必要がある。

まずは我が身を調える。

それが万物を貫く道理というものである。

◆素直な心に戻る

自分からは決して打たないと覚悟を決めて、
心を動かすことなく修行をしていると、
なるほどと悟ることがある。

少しの疑念も挟まずに修行をしてみる。

やがて必ず新しい発見があるはずだ。

修行はなんのためにするのでもない。

そもそも「なんのため」という疑問を
取り払うためにしているのである。

仕事でも「なんのため」と聞かれると、
とりあえず生活の糧を得るためであることは
間違いないだろうが、
それだけではないはずだ。

その先には自分の生きがいを求める
というような理由もあるだろう。

だが、それをさらにずっと問い詰めていくと、
「なんのためと聞かれても困ります」
「なんのためでもありません」
というところに到達するのではないか。

「労して功なし」という言葉がある。

何十年修行しようが悟りを開こうが、
修行なんて労して功なしだ、という。

しかし、人が生きて行きつく先は結局
「労して功なし」というところなのだ。

修行というのは「なんでこんなこと」
の連続である。

逆にいうと「なんでこんなことを」という心が
取れないと修行にならない。