◆しなやかに立ち向かう 心は風にそよぐ荻おぎのようであれ。 時には柔軟に、時には剛毅ごうきに、 時には強く、時には弱く、 そういうしなやかさが大切である。 心というものを荻にたとえている。 風が吹くまま右へ左へ行ったり、 自由自在なしなやかな心が大切だという。 それは子供の心にも似ている。 人は皆、 もともと子供のような心を持って生まれてきた。 ところが、 成長していくにしたがって体が硬くなるのと一緒に 心も固くなっていく。 だから年寄りは得てして頑固になる。 これは自然に固くなるというよりも、 自分で固くしてしまうというほうが的確かもしれない。 人は何もしなければ 一つの考え方に凝り固まってしまう。 自分ではそれが正しいと思って生きているわけだが、 その正しさとは自分勝手な正しさにすぎない。 だから百人いたら 百人の正しさがあっても不思議ではない。 ところが、年をとると、 それがなかなか理解できなくなっていく。 もっともっと本来の心の柔軟性、 子供のめげない姿に我々は立ち返らないといけない。 ◆人を変えようと思うならまず自分から 人を治めようと思うならば、 まず自分自身を治めることだ。 これはすなわち「大学」でいう 修身斉家しゅうしんせいかの道に他ならず、 万物を貫く道理というものである。 どうしても私たちは 自分が変わるより人を変えたいと思う。 なぜか? 鏡を見れば自分の姿を見ることができるが、 通常は自分の顔を見ることはできない。 自分の声も録音して聞いてみると 思っているのと全然違う声に聞こえる。 我々は自分のことはろくに知らないのだが、 他人の姿は見えるし、声も聞こえ、 匂いもするから、 なんとなくわかるような気がする。 だから他人を変えようとするのだろう。 しかし、自分の心を変えることすら難しいのに、 他人の心を簡単に変えられるわけがない。 人を変えようと思う前に、 どうしたってまず我が身を修める必要がある。 まずは我が身を調える。 それが万物を貫く道理というものである。 ◆素直な心に戻る 自分からは決して打たないと覚悟を決めて、 心を動かすことなく修行をしていると、 なるほどと悟ることがある。 少しの疑念も挟まずに修行をしてみる。 やがて必ず新しい発見があるはずだ。 修行はなんのためにするのでもない。 そもそも「なんのため」という疑問を 取り払うためにしているのである。 仕事でも「なんのため」と聞かれると、 とりあえず生活の糧を得るためであることは 間違いないだろうが、 それだけではないはずだ。 その先には自分の生きがいを求める というような理由もあるだろう。 だが、それをさらにずっと問い詰めていくと、 「なんのためと聞かれても困ります」 「なんのためでもありません」 というところに到達するのではないか。 「労して功なし」という言葉がある。 何十年修行しようが悟りを開こうが、 修行なんて労して功なしだ、という。 しかし、人が生きて行きつく先は結局 「労して功なし」というところなのだ。 修行というのは「なんでこんなこと」 の連続である。 逆にいうと「なんでこんなことを」という心が 取れないと修行にならない。