Liberal Arts {Article310}

ようこそ「リベラル・アーツ」へ...

武器になる哲学〔3〕格差【山口周】



【動作環境】iPhone[○], Android[○], Windows{Microsoft Edge[○], Google Chrome[○]}
◆格差【セルジュ・モスコヴィッチ】

「公正」がこれほどまでに望まれているのであれば、
私たちの組織においても社会においても、
公正が実現されているはずである。

しかし、そうなっていない。

なぜか?

一つの有力な仮説が
「本音では誰も公正など望んでいないから」
ということだ。

私たちは、江戸時代まで続いた身分制度を撤廃し、
民主主義を実現したということに、
一応なっている。

しかし、差別や格差は根絶されていない。

いやむしろ、江戸時代のように
公然と身分が分かれていた時代よりも、
格差や差別はより陰湿で深刻な問題として
私たちの社会を蝕んでいる。

なぜ、このようなことが起こるのか。

理由は単純で、
身分の差がなくなり、
建前上は誰にでも機会が
公平に与えられているからこそ、
差別や格差がよりクローズアップされているからだ。

この問題を指摘したのがアリストテレスだった。

彼は「弁論術」の中で次のように述べている。

「すなわち、ねたみを抱くのは、
自分と同じか、同じだと思える物がいる人々である。
ところで、同じ人と私が言うのは、
家系や血縁関係や年配、人柄、世評、
財産などの面で同じような人のことである。
また、人々はいかなる人に対して
妬みを抱くかという点も、もう明らかである。
なぜなら、他の問題と一緒にもう語られているから。
すなわち、時や場所や年配、世の評判などで
自分に近い者に対して妬みを抱くのである。」

また、人種差別について深い洞察を残した
モスコヴィッチは、次のように指摘している。

「人種差別は逆に同質性の問題だとわかる。
私と深い共通性を持った者、私と同意すべきであり、
私と信条を分け合うはずの者との間に
見出される不和は、たとえ小さくとも耐えられない。
その不一致は実際の度合いよりも
ずっと深刻なものとして現れる。
差異を誇張し、私は裏切られたと感じ、
激しい反発を起こす。」

私たちが安易に「究極の思想」として掲げる
「公正で公平な評価」は、本当に望ましいことなのか。

仮にそれが実現したときに「あなたは劣っている」
と評価される多数の人々は、
一体どのようにして自己の存在を肯定的に
捉えることができるのか。

そのような社会や組織というのは、
本当に私たちにとって理想的なのか。

「公正」を絶対善としてたてまつる前に、
よくよく考えてみる必要がある。