◆「運の良い人」というと、 なんとなく「楽観的」というイメージが あるのではないだろうか。 しかし、それは間違いだ。 運の良い人はもちろん、 幸せな人生を送っている。 そうでなければ「運が良い」とは誰も言わない。 幸せな人生を送っているからこそ、 「運の良い人」と呼ばれるわけだ。 運が良いと他人から思われ、 自らも運が良いと思う人は、 おそらく何か自分なりの目標を すでに達成した人だろう。 目標を達成するためには努力も必要だが、 それとともに偶然の力(同じことを「運」、 「神」などと呼ぶ人もいる)も大切だ。 目標が達成できた人は、 それに満足し、嬉しい気持ちで日々を過ごしている。 だからよく笑う。 そういう人と一緒にいれば、みんな楽しい。 それでつい彼らを「楽観的な人」と 呼びたくなるのだが、それは違うのだ。 「楽観的な人」というのは、 簡単に言えば、「なんとなくうまくいくだろう」 といつも思っている人のことである。 しかし「運が良い」といわれる人たちは、 だいたいそうではない。 むしろ、彼らのほとんどは、 極めて悲観的な一面を持っている。 頑固、気難しい、神経質、という面もある。 いつも楽しい人かと思って接していると、 ときおり彼らのそういう面に触れて 驚かされることがある。 こういう「悲観的な」性格は、 生まれつきのものというより、 あとから身につけたものであることが多いようだ。 自分で意識して、 懸命に悲観的な態度を取っていると言ってよい。 つい気が緩んで楽観的になりそうになるが、 日々細心の注意を払い、 努めて悲観的なものの見方をするようにしている、 ということだ。 理由が明確にわかってそうしている人もいれば、 なんとなく直感でそうしている人もいるが、 ともかく、 悲観的な態度をとても大切にしているのである。 その態度を失えば幸運が逃げていく、 そう思っているのだ。 なぜ、みんなこれほど悲観的なのか、 それをよく考えねばならない。 運の良い人の悲観的態度は 二つの法則でほぼ言い表せる。 二つは互いに関係し合っていて、 実は表裏一体と考えてもいいくらいだ。 ここでは、二つをまったく別のものとして説明する。 ●マーフィーの法則 (自分の幸運を信じすぎてはいけない) この法則は、広く知られており、 特にエンジニアやビジネスマンが好んで口にする。 難しい言い方をすれば、 「この不確実な世界の中で、 確実なものを渇望している人たち」 に特に愛されている法則、 ということになる。 マーフィーの法則の中で最も有名なのは、 「うまくいかない可能性のあるものは、 必ずうまくいかない」というものだ。 運が良い人は当然、 よく幸運に恵まれるわけだが、 彼ら自身は決して「自分は幸運に恵まれやすい」 とは思っていない。 そして、そのことが逆に 幸運に恵まれている理由になっている。 幸運の女神が気まぐれだということを、 彼らは知っている。 今日は優しくしてくれても、 明日は急に蹴飛ばすかもしれない、と。 「自分は幸運の女神に愛されている」 などと絶対に思ってはならない。 最高に幸せで輝いているとき、 素晴らしい幸運に恵まれて気分が高揚しているとき、 この幸運が奪われることなどあり得ないと思えるとき、 人間はそんなとき最も危ない。 最も不運に弱くなるのは、 そんなときなのだ。 幸福で気分が高揚しているときには、 どうしても悲観的な態度でいることが難しくなる。 態度が悲観的でなくなるというのは、 つまり無防備になってしまうということだ。 不運から身を守る力が弱まってしまう。 ラチェット効果も働きにくくなる。 何か悪い予感がしても、 それを無視する。 せっかく予感が何かを伝えようとしているのに、 聞きたくないからと耳をふさいでしまう。 そして、気づくとうつぶせに倒れ、 顔を泥の中に突っ込んでいるということになる。 幸運の女神に足で首を踏まれ、 身動きがとれない。 ギャンブラーは誰でも、 幸運に恵まれたいと望んでいる。 誰でも気分は沈むし、 勝てば、誰でも喜ぶ。 なかには、 ギャンブルで勝つことに至上の喜びを見出す人もいる。 あまりに喜びが大きいために その経験を忘れることができず、 繰り返し気まぐれな運命の女神の手に お金を預けてしまう、 そういう人がいるのだ。 彼らは破産したいわけでも、 飢えたいわけでもない。 そんなことはあり得ないことだ。 彼らの問題は、 「楽観的すぎること」である。 ジェイ・リビングストン博士は言う。 「ギャンブルにのめり込んでいる人について 詳しく調べていくと、彼らの多くが、 はじめのうちは勝っていたということがわかります。 ギャンブルを始めたばかりの頃は『ついていた』 わけです。 それがあまりに楽しかったために、 同じ気持ちを繰り返し味わいたいと思って しまったのです。 しかし、確率の法則はそれを許しません。 それは誰にとっても自明のことのはずですが、 彼らは『また同じことが起こるはず』 という希望を失いません」 これは「楽観主義の呪い」である。 前出のボイド博士も、 このいわゆる「ビギナーズラック」 の危険性を指摘している。 同じことはギャンブルだけでなく、 人生全般についても言える。 たとえば、人が保険に入るのは、 不運から身を守るためだ。 自分が不運に見舞われることなど想像もしない人、 星や神が神秘的な力で自分を守ってくれると 信じている人は、保険などに入らないだろう。 私たちにとって何より良くないのは、 若い人たちが早いうちに幸運に恵まれることである。 ●ミッチェルの法則 (運が自分の思い通りになると思ってはいけない) マーサ・ミッチェルは、 努力の末にモデルとして成功し、 弁護士だった夫ものちに大変な出世を遂げた。 一時は素晴らしい名声を手に入れたが、 夫がニクソン政権の司法長官となり、 ウォーターゲート事件に巻き込まれたことで 人生が完全に狂ってしまった。 ミッチェルは穏やかにこう言った。 「人生とはつるつる滑る石鹸のようなものです。 自分ではしっかりとつかんでいるつもりでも、 つるりと手から落ちてしまうんですよ」 これをミッチェルの法則と呼ぶ。 この未知の要素こそ、 我々が普段「運」と呼んでいるものである。 もし、「自分だけは運には左右されず、 自分の人生を完全に自分の思い通りにできる」 と信じている人がいるとしたら、 その人はとんでもない勘違いをしていることになる。 この勘違いは危険である。 運の良い人は、 人生を秩序あるもののように錯覚したりはしない。 前もって細かく計画を立てたとしても、 すべてその通りにできるなどと思わないのだ。 決して予想通りにならないこの「無秩序さ」、 「でたらめさ」が、ある人を喜ばせ、 あるときは人を苛立たせる。 苛立ってしまう人が、 すなわち「運の悪い人」というわけだ。 運の良い人は、 この無秩序さを事実として受け入れ、 嫌でも対処しなくてはならないものと考える。 そこが、運の悪い人と決定的に違っている。 運の悪い人は、 無秩序さを受け入れようとはしない。 無秩序でないことを、 何とか証明しようとする。 自分の運命はすべて自分で決められる、 そんなふうに思ってしまうことは誰にもある。 だが、それは絶対に間違いだ。 特に良くないのが、 「頑張っていれば、きっと良いことがある」 という考え方だろう。 これは、どう考えても完全な誤りである。 なぜ、 これほど長く生き残ってきたのか不思議なほどだ。 ホフマンは自分が競馬をよく知っていると信じていた。 おそらくそれは事実だろう。 そう言えるだけの豊富な経験を積み、 努力もしていたからだ。 つまり、「頑張って」競馬をやっていたわけだ。 だが、彼はあまりに自分を信じすぎていた。 自分の力で勝つ馬を当てられると信じ、 運の要素をあまりに小さく見ていた。 実際には、競馬においては、 彼が思うより運の要素がはるかに大きかったのだ。 事実、彼はその運によって破滅することになった。 人は皆、いつ不運に襲われるかわからない。 不測の事態に対処するには、 常に心の準備をすることが必要だ。 自分の運命が思い通りになるなどと、 絶対に思ってはならない。 どういうことが、いつ、突然、 自分の身に起きるかは誰もわからないのだ。 結局、 「マーフィーの法則」と「ミッチェルの法則」 で言われているのは、 「悪いことはいつ起きるかわからないから、 常に備えを怠ってはいけない」 ということだ。 つまり、「悲観的な態度が大事」ということである。 それが運を良くするためのコツなのだ。 悲観的であれ、と言われると、 なんとなく希望を失ってしまいそうにもなるが、 実は、その裏には希望も隠れている。 悲観的な態度が必要なのは、 不運がいつやってくるかわからないからだが、 いつやってくるかわからないのは「幸運」 も同じなのである。 二つはコインの表と裏だ。 そして、いつやってくるかわからない幸運を 確実につかむのが「勇気」である。 たとえそれが、 まるで予定になかったことだったとしても、 思い切って前に出ないと幸運はつかめない。 幸運にしろ不運にしろ、 自分の人生を自分で「こうだ」と 決めつけてしまっていては、 まったくうまくいかない。 突然の幸運、 突然の不運で人生が思いがけず大きく変わる。 その可能性は絶対に無視できない。 二つの法則からは、 次のような「明るい」法則も導き出される。 「物事がうまくいっているときは、流れにまかせる」 また、こんな法則も導き出せるだろう。 「脇道にそれたほうがうまくいきそうなら、 それてみる」