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マネーの公理〔3〕リスクについて【マックス・ギュンター】



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◆分散投資の誘惑に負けないこと

分散投資が何を意味しており、
あなたが金持ちになるうえで
どんな影響を与えるかを考えてみよう。

投資の世界での分散とは、
お金を分散して投機することを意味している。

少しずつ分散する。

2、3の大きな投機ではなく、
たくさんの小さな投機を行うのだ。

ポイントは安全性だ。

もし、あなたの投資の6つが息詰まったとしても、
残りの6つはうまくいくかもしれない。

株式がすべて暴落しても、
債券だけは価値が上昇し、
あなたを破産から救ってくれるかもしれない。

これが分散投資の論理的説明だ。

分散投資はリスクを低減するが、
金持ちになるという希望も同じくらい減少させる。

中産階級の投機家は、
投機の冒険をスタートさせるための
元金が限られている。

5000ドルを持っているとしよう。

あなたはこれを増やしたい。

ではどうするか。

従来の論理は、分散投資せよという。

500ドルずつ10に賭けろと。

自動車産業が活況そうだから自動車株を500ドル買い、
金利が上昇する可能性があるから500ドルを
預金口座に入れて、そのうえ、
金融商品が何もかも崩壊するかもしれないので
金(ゴールド)を500ドル買う、といった具合だ。

これで、あらゆる不測の事態に対して
準備ができていることになる。

安全だと感じることができるだろう。

あらゆるものから安全に守られている・・・
豊かになるという危険からも。

分散投資には3つの重大な欠陥がある。

1: 「いつも意味のある勝負に出ること」
という教えに反する

もし、当初の元金がそれほど大きいものでないのなら、
分散投資は状況を一層悪化させる。

分散投資すればするほど、
あなたの投機はより小さくなる。

極端に分散投資してみるといい。

そうすれば、あなたの資産は本当に取るに足らない
金額で終わることになるだろう。

少額がいくら大きく増加したところで、
スタート時点の状態とほとんど変わらない。

つまり、依然として貧しいのだ。

2: 分散投資は、
利益と損失が互いに相殺し合う状況を作る

結局はスタート時点、
つまりポイント・ゼロと変わらない。

すべては、時間と努力の無駄だったことになる。

何のための投資だったのか?

3: 分散投資することで、あなたは、
空中にある数多くのボールを同時に
何とか維持しようとしているジャグラーになっている

もし、2、3の投機だけをやっており、
そのうちの一つか二つが下落したら、
防衛のための行動をとればいい。

より多くの投機を行うと、
より多くの時間と勉強が必要となる。

あなたは絶望的に混乱するかもしれない。

物事がうまくいかないとき、
これは避け難いのだが、
あなたも確実に認識しているように、
問題が次から次へと発生するにつれて、
パニックに近い状況に陥るかもしれない。

このような苦境において、
人々、とりわけ新米の投機家に起こることは、
恐怖で動けなくなるということだ。

あまりにも多くの痛みを伴う決定を
ものすごいスピードでくださなければならない
というプレッシャーに圧倒されて、
彼らはまったく何もできなくなってしまう。

彼らは、自分たちの富が次第に減少していくなか、
立ちすくみ、呆然として、打ち負かされてしまう。

分散についての、
これら3つの重大な欠陥を、
安全というたった一つの利点と比較すると、
それほどすばらしいものには見えなくなるだろう。

多少の分散は、
おそらくそれほど害にはならない。

せいぜい3つか4つの投機。

分散投資を行うために分散するのであれば、
それはやめるべきだ。

買い物籠をできるだけ早く
商品で一杯にすることを競う、
スーパーマーケットの買い物コンテストの
出場者のようになってしまう。

結局、必要でないたくさんの高価な
ガラクタを持って家に帰ることになる。

お金を入れるべきは、
あなたにとって純粋に魅力のある対象であり、
それだけにお金を投じるべきである。

ポートフォリオを分散させるためという理由だけで、
何かを買ってはいけない。

「すべての卵は一つの籠に入れろ、そして籠を見守れ」
と言うこともある。

1ダースもの籠を見守るより、
一つか二つの、あるいは三つの籠を見守るほうが
よっぽど簡単である。

キツネが卵を盗もうと近づいたら、
ぐるぐる走り回らなくても彼を追い払うことができる。

◆いつも意味のある勝負に出ること

「失っても大丈夫な金額だけ賭けること」。

昔からの決まり文句だ。

しかし、これを投機家としての
七つ道具の一つにする前に、
細心の注意を払って吟味してみるべきだ。

ほとんどの投資家が自ら証明してきたように、
この戦術は、
ほぼ間違いなく貧しい結果をもたらしてきた。

失うことができる金額とはいくらだろう。

ほとんどの人は、
失っても傷つかない金額、
あるいは、失っても自分の財産に
たいした違いをもたらさない金額だと定義する。

1ドルか2ドル、20ドル、数百ドル。

これが、ほとんどの中産階級の人が失っても
大丈夫だと考えている金額だろう。

結果として、中産階級が投機を行う場合に賭ける
金額もこの程度なのだ。

しかし、考えてみてほしい。

もし、100ドルを賭けて、それが倍になったとしても、
あなたは依然として貧しいままだ。

システムを打ち負かす唯一の方法は、
勝負に出ることだ。

負ければ破産するような金額を
賭けろと言っているのではない。

傷つくことを恐れてはいけない、という意味である。

どのみち、あなたは家賃を払ったり、
子供を養ったりしなければならない。

賭ける金額が小さくて、
失ってもたいした違いがないのであれば、
大きな利益がもたらされることはないだろう。

小さな賭けから大きな儲けを得る唯一の方法は、
大穴狙いしかない。

1ドルの宝くじを買って、
100万ドルが当たる可能性はないと言える。

夢を見るのは楽しいことだが、
当然のことながら、
負ける確率は情けないほど高い。

投機するなら、
傷つくことを厭わない気持ちで
スタートしなければならない。

少しでもいいから、
心配になるような金額を賭けるのだ。

◆「そうだな、じゃあ、いまから君に教えてあげよう」
とリバモアは言った。

「すべての職業にはうずきと痛みがあるのだよ。

蜂を飼っていれば刺される。

私の場合は、心配する、心配したくないなら、
貧乏なままだ。

もし、心配と貧乏の選択肢があるのなら、
いつだって心配するほうを選ぶよ」

リバモアは、株式投機によって4度、
巨額の富を得て失ったが、
心配を受け入れただけでなく、
それを楽しんでいるようだった。

残念ながら、ジェシー・リバモアは、
そのほかの公理を何も持っていなかったので、
自分を救うことができなかった。

そして、彼の物語は幸せに終わることはなかった。

◆給与や賃金収入で金持ちになることはない。

不可能だ。

世界の経済構造は、
あなたに不利になるようにできている。

生活を支える柱として仕事からの収入に
依存してるのなら、
人生においてせいぜい食べ物のために
物乞いをしなくてすむという
希望を持てるくらいだろう。

それさえも、保証されているわけではない。

奇妙にも、大多数の人々は、
主に仕事からの収入に頼って生活しており、
予備として預金をしている。

とりわけ米国の中産階級は、
教育や社会的条件によって、
こうした習慣に従うことを余儀なくされる。

冷たい真実がここにある。

裕福な親戚がいない限り、
大多数を占める貧乏人クラスから
這い上がる唯一の方法は、
リスクをとることである。

もちろん、それは一方向ではない。

リスクをとることは、
利益の可能性ばかりでなく
損失の可能性も意味している。

もし、自分のお金で投機を行えば、
損失をこうむる立場にもなる。

金持ちになる代わりに、
貧乏に終わるかもしれない。

しかし、こう考えてみてはどうだろう。

世界のすべてを背負いながら、
税金に追われ、インフレに翻弄されていては、
給与所得者の財産はかなりみじめなものと
言わざるをえない。

金持ちになろうとして多少いまより
貧乏になったからといって、
どれだけの違いがあるだろう。

もしチューリッヒの公理を身につけていれば、
いまよりかなり金持ちになることができるはずだ。

下がるより、上がる余地がもっとある。

何が起ころうとも、
冒険することを望むだろう。

期待できる利益のほうが
損失よりもかなり大きいのだから、
ゲームはあなたに有利にできている。

◆東洋の規律のように、
神秘的で瞑想的な規律の心酔者しんすいしゃは、
静寂にさらに踏み込んでいる。

彼らは安堵を非常に重視するので、
多くの場合、その代わりに貧困になっても
仕方がないとさえ思っている。

たとえば、仏教のいくつかの宗派は、
人は物欲を持つべきではなく、
所有しているものを他人に分け与えるべきだと考える。

理屈は持たなければ持たないほど、
心配の種が少なくてすむということだ。

チューリッヒの公理の背後にある哲学は、
もちろん、この正反対にある。

心配から解放されるのは、
ある意味良いことだ。

しかし、有能なスイスの投機家なら誰もが、
人生のゴールが心配から逃れることなら、
貧困から抜け出すことはできないと言うだろう。

あなたはうんざりするかもしれない。

けれども人生は、
ただ座していてはいけない。

冒険すべきだ。

冒険は、危険に直面して、
それを乗り越えようとすることだ。

危険に直面しているとき、
あなたの自然で健康的な状態は、
心配事を抱えているだろう。

心配は、人生の最大の喜びと切り離すことができない。

たとえば、恋愛のように。

もし、何かに責任を持つことや、
リスクをとることを恐れていれば、
恋に落ちることはない。

あなたの人生は、
潮溜まりのように穏やかなものとなるだろうが、
そんな人生を誰が望むだろう。

われわれにとって冒険は必要なのだ。

もちろん、われわれには平穏な時間も必要だ。

しかし、夜眠っている間は
十分に安らかな時間を得ているし、
起きている間でも、
毎日2,3時間は平静な時間を過ごしているだろう。

そんな平穏な時間は、24時間のうち
8時間や10時間もあれば十分である。

冒険は、人生を生きる価値のあるものにする。

そして、
冒険したいのであれば自分をリスクにさらすことだ。